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2015年06月22日

ありがとう

29年前、私は長女サシャを
ワシントンDCの病院で出産した。

私はまだまだうんと若かったのだけれども、
いきなり血圧が上がったことも原因のひとつで、
かなりの難産になった。

入院から39時間後、初めての赤ちゃんを産んだ感動や
生まれたてのサシャのかわいさを愛でる間もなく
一瞬胸に抱いたサシャを看護婦さんに渡して
胃液を嘔吐してしまうほど私は弱っていたので、
そのまま集中治療室送りとなったのだった。

4日後、私の退院と同時に前夫は仕事に戻り、
疲労と痛みと空腹に苛まれながらの育児が始まった。

私たちが暮らしていたDC郊外はあまりにも遠かったので、
日本の母には助けに来てもらえなかった。
そして当時40歳の義母は、フルタイムの学校教師として
まだバリバリ働いていたので、
彼女が手伝いに来てくれることもなかった。

母が日本から送ってくれた「はじめての赤ちゃん」という
図解の育児本だけを頼りに、私はサシャを必死で育てた。

そして愛しい愛しいサシャの顔を見つめながら
「この子がいつか赤ちゃんを産む時が来たら、
世界のどこにいても、私はきっと助けに行く」と心に誓った。

長男ケンが生まれたのは、ハワイだった。
その時は母が日本から来てくれて、
まだ2歳半だったサシャの面倒をはじめ、
炊事、洗濯、掃除と、何もかも手伝ってくれた。

だから母が日本に帰ってしまった後、
マタニティーブルーに見舞われた私は、
母への感謝の気持ちと寂しさでいっぱいになり、
めそめそ泣いたりしたものだった。

そして「やっぱりサシャが赤ちゃんを産む時には
ぜったい私がずっと側にいて助けてあげよう」と
再び心に誓ったのだった。

私が3人目のサリーナを高齢出産した直後には、
ジュニアが出張でハワイを離れても、
もう18歳のサシャや15歳のケンがいたし、
ヒロヨやオフィスのみんなも手伝ってくれたので
どちらかといえば余裕の育児となった。

私は、ジュニアによく似たサリーナの顔を見ながら
「この子が赤ちゃんを産む時まで、
私は生きているのかしら…」と弱気になり、
「ああ、でもこの子が出産する時には、
きっと私に代わってサシャが一緒にいてくれるよね」と
いきなり他力本願路線に切り替えて思うのだった。

「でもせめていつかサシャが赤ちゃんを産む時には、
私が側にいて腰をさすったりして支えてあげよう。
授乳でおなかが空いた時に、すぐ食べられるようにしてあげよう」
…と、私は誓いを新たにした。

そして今年6月1日、ついにその「いつか」が来て、
私はサシャの出産に立ち会うことができた。

サシャがハワイにいてくれて良かった。
健康な赤ちゃんが生まれてくれて良かった。
安産で良かった。

ありがとう、ありがとう、ありがとう。



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